蓼科生活 vol.20 若き移住者の挑戦
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焙煎の芳ばしい香りに包まれた店内。落ち着いたダークグレーの塗り壁やカウンターなど店内の装飾は、
地元で知り合った職人から道具を借りて自分で行ったという

昨今、自分らしい生き方を求めて地方への移住を考える若者が増えている。
2012年に都会を離れ、[チェルトの森]に移り住んだ原西さんの蓼科生活に触れてみた。

人生を変えた一杯のコーヒー

 地方移住といえば、仕事に縛られない定年退職後というイメージがあったが、茅野・原村・富士見エリアにおいては、コロナ禍を機に若い世代の移住者が増えている。12年前に20代後半で都心から蓼科高原に移住した原西謙嘉(よしひろ)さんは、その若者移住者の先駆者である。
 「チェルトの森に叔母の別荘があり、小学生の頃からよく遊びに来ていました。大学を卒業して都内で働きつつも、忙しい都会暮らしに違和感を覚え、いつか自然豊かな蓼科で暮らしたいと思っていたのです」と謙嘉さん。そんな将来の願望であった移住を実行に移すきっかけとなったのは、或る一杯のコーヒーだったという。

コーヒーとの出会いが、自分の生き方を見つめ直すきっかけになったという原西謙嘉さん

 「横浜市に住んでいた頃、何かとストレスが溜まる度に散歩に出かけていました。ある時、コーヒー店の前を通りかかり、芳しい焙煎の香りに誘われてふらっと立ち寄ってみたのです。」
 当時、苦いブラックコーヒーが嫌いで、ミルクたっぷりのキャラメル・マキアートなどを飲んでいたのだが、店主の薦めでスペシャリティコーヒーを試飲したところ、
 「花のような、果実のような香りが鼻に抜け、飲み口もすっきり爽やか。飲んでいるうちにモヤモヤした気持ちが不思議なほど晴れて、“コーヒーにはこんな力があるんだ”と衝撃を受けました。」
 専門的な知識と技術を身に付けたいと強く思い、コーヒーの通信講座を受講。コーディネーターや焙煎士の資格を取得した。
 そして、自然豊かな八ヶ岳山麓に移り住みコーヒーを生業にする将来像を思い描いて、日々努力を重ねていた時、東日本大震災に遭遇。価値観が一変し、「移住するのは、いつかではなく今だ!」と決心したという。

地域に溶け込み、地域に根付く

 現役世代にとって移住先でどんな仕事に就くのかは、何よりも肝心なこと。結婚して間もなかった謙嘉さんは、自分のコーヒー店を持つのはまだ時期尚早と考え、仕事探しに奔走した。
 「せっかく八ヶ岳山麓で暮らすのだから自然と触れ合える仕事をしたい」と、富士見町の花農場に就職。2012年に[チェルトの森]の叔母の別荘に夫婦で引越し、花の栽培に従事する傍ら珈琲豆の焙煎技術を磨いたという。

“Wilson”の愛称で呼ばれる直火式焙煎機。
生豆の芯までじっくり焼くことができ、珈琲豆のもっている
個性を十分に引き出す

香りの変化をチェックし火入れを変える謙嘉さん。
直火式焙煎機は、ちょっとしたタイミングの違いで
焦げたり煎りムラがでたりするため、細心の注意を払う

 そして5年ほど経った夏、転機が訪れる。[チェルトの森]のフリーマーケットに出店し、焙煎珈琲の試飲と豆の販売を行ったところ、多くのお客様から好評をいただき、
 「自分が作ったコーヒーがこんなに喜んでもらえるとは、なんて嬉しいんだろう。やっぱりコーヒーをやりたい!」と一念発起。花農場の仕事で広めた人脈を通じて、国道20号線沿いにある[中山植物園]内の店舗を紹介され、2019年8月に[ガーデニア・コーヒースタンド&ロースタリー]をオープンした。

「ツキノキマルシェ」にて、謙嘉さんがチェルトの森を
イメージしてブレンディングしたコーヒー豆を販売中。
パッケージは夏奈さんがデザインしている

国道20号線に面した中山植物園の一角にある「ガーデニア・コーヒースタンド&ロースタリー」。綿半ホームエイド富士見店と駐車場を共有しており、車で行きやすい

さらなる高みへ、飽くなき挑戦

 コーヒー一本に絞った謙嘉さんは、焙煎技術をさらに高めるため[日本スペシャルティコーヒー協会(SCAJ)]主催の厳格な指導で知られるセミナーを受講。
 「講師からアドバイスを受け、ゼロからもう一度やり直しました。問題点を洗い出し解決する作業が実に楽しく、コーヒー焙煎への意欲がますます湧いてきました。」
 2022年10月に東京ビッグサイトで開催された[SCAJローストマスターズチームチャレンジ]では、関東Bチームのメンバーに選ばれ、7人の仲間と切磋琢磨。300人の一般客から至高の一杯として選出される[オーディエンス大賞・第1位]に輝いた。

2022年度SCAJローストマスターズチームチャレンジにて、関東Bチームの一員として参加し
「オーディエンス大賞・第1位」を獲得。コンペでスキルアップを図ると共に人脈を広げている

 また、コーヒーの美味しさを客観的に評価できるよう、ワインテイスティングに当たるコーヒーカッピングを突き詰め、2024年春、コーヒーに関する唯一の国際認定資格[Qアラビカグレーダー・コーヒー鑑定士]を取得した。国際基準の審美眼を身に付け、自分の焙煎技術に対してよりシビアになっているという。

コーヒーを一口飲み、その味や香りで豆のグレードを審査する「Qグレーダー・コーヒー鑑定士」。
合格率12%という超難関を突破し、2024年4月に取得した

それぞれの特徴を記したプレートとともに並ぶコーヒー豆のサンプル。インドネシアのアルフィナー氏が手掛ける良質な
マンデリンやエキゾチックなルワンダなど高品質かつ個性的な生豆を厳選している

 十数年前、自分の生き方を見つめ直すきっかけとなった一杯のコーヒー。雑多な喧騒、ストレスとは無縁の八ヶ岳山麓で暮らし、余計なことに気を取られず理想のコーヒーを一途に追い続けている。

カッピングにより、香味、風味、酸味、甘み、苦味、後味な どを確認しながら焙煎度合いを調整し、コーヒー生豆それぞれの特徴を活かす

次は「JCRCジャパンコーヒーロースティングチャンピオンシップ」での受賞を目指したいと語る謙嘉さん。
理想に向かって挑戦は続く

店舗では、スティックスコーンなどコーヒーに合う焼き菓子も用意している。またドリップコーヒーのサーバーには、抽出量を正確に量るためビーカーを使用している

子供の“好き”を伸ばすアトリエ フフ

 そして、妻の原西夏奈さんは、家具やジュエリー、パッケージなどのデザインを手掛けるデザイナーで、移住後も都内の仕事を継続して引き受けていた。
 長男が泉野小学校に入学すると、「何か習い事をやっている?」「子供がお絵かきをやりたがっている」といった話が出たという。夏奈さんが「じゃあ、うちの子と一緒にやってみる?」と声を掛けたところ、絵を習いたい子がどんどん増え、2020年6月から子供向けの美術教室を[ワークラボ・チェルトの森]にて開いている。

「教えるのではなく引き出すことが大切」と、自由に描くことからスタート。
「ここをこうすればいいんじゃない」とアドバイスするだけでどんどん良くなり、作る喜びが倍増する

 「今、子供の遊びというと、ゲームなど誰かが作った受動的なものばかりです。創作を通じて、自分の頭で考え、手を動かす習慣を身に付けて欲しいと願っています」と夏奈さん。題材は、拾った石をピカピカに磨き絵を描くストーンアートや消しゴムはんこ、照明のスイッチカバーなど身近なものがメイン。「デッサンとか、ただ絵がうまくなって欲しいのではなく、子供が描きたいもの、好きなことを伸ばしたい」という。
 開設して4年経ち、生徒数が増え、授業時間を長くして欲しいとの声も多く寄せられ、2024年6月より新体制に移行。茅野市泉野に場所を変え、新たな教室名[アトリエ フフ]を掲げスケールアップした。
 都心から移住し、地域に新しい風を吹き込んでいる原西さん夫婦。移住者と地域が一体となって明日を拓く、ポジティブな活力に満ち溢れている。

授業終了後に無邪気に遊ぶ子供たち。
地元の小学校は生徒数が少ないこともあり、学年を超えて
学び、遊び、助け合う、温かい環境だ

「知らない土地に移り住み、こうしてやってこられたのは周りの皆さんのおかげです」と語る原西夏奈さん。現在、泉野小学校から依頼され「絵画クラブ」の講師も務めている